39:アルファイズム(1998/04/07)

 道具というのは面白いもので、例えば発明された当時の用途を忠実に守りながら進化してゆくものがある時点で滅び、その本質が変わってしまったものが普及してゆくという事実があります。しかし、もし「本質」というものがはっきりしていたとすれば、道具の正常進化とはやはり単一目的の方向に進んでいるはずです。
 それが如実に出ているのは何といっても乗り物に関するものでしょう。オートバイや自転車などは、用途や形態が細分化され、しかも実用的な用途から離れる事によってよりその本質を究めながら進化していいると言われます。
 この事は、自動車にも当てはまります。自動車の本質とは何でしょう?でも、クルマは実に社会的な道具です。バイクや自転車のようには簡単に括れないのも確かです。

 75TSやAlfettaに乗っていると「アルファだから」という理由で納得することが実に少ない事に、ある日気が付きました。全ての要素が「クルマだから」になってしまいます。この感覚は非常に微妙なところもあって言葉にするほどまだ整理がついていないのですが、端的に言うと「アクセルを踏んだ分だけエンジンが吠える」「アクセルを踏んだ分だけ前に進む」「アクセルを開けた分だけ切れ込む」「ステアリングを切った分だけ曲がる」...and so on。そういう挙動が全て、「自動車」というものの基本を強調したもので、「アルファならでは」というよりは「クルマってこういう乗り物だよね」という様な普遍性だけが大きく出てくるのです。
 誤解のないように言っておきますが、決して「75TSは平凡だ」と言っているのではありません。
 トランスアクスルを始めとする75TSの機構すべては、普段はその存在を全く意識できないという素性になっているのです。機構の事を意識しないで、とにかく「走る」ためのドライバーの行動が全て「走り」に直結しているという感じなのです。
 
 クルマというのは現在、「走り」だけでは語れないものになっています。普段我々が使っている「クルマ」とは、本質自体がかなり変化して別の道具になりつつあります。十把一からげに「自動車」と言っていいのかどうか分からないほどです。トヨタもメルセデスも、例えば「コンフォート」という項目を大事にしています。あるいは「応接間」という項目も入ります。そしてそこにはメーカーあるいはマーケット論理が主張するその時代の特徴的な「解」が見えます。それがさまざまな機構を通してドライバーやパセンジャーに「新機軸」として訴えかけてきます。アルファは、そういう新機軸への意識は働かず、いつも走ることに専念してしまうのです。だから「イタ車だからどこが違うんだろう?」とアルファにやっても、全然分からない訳です。

 僕は75TSを運転するたびに、トランスアクスルに固執したアルファというのは経営危機のせいだけではない、重量配分に対する絶大な自信と「試行錯誤の末の解」を感じます。つまりは「特殊な機能は特殊さを演出するためにあるのではなく走りのための当然の帰結である」という、クルマという道具の本質に迫ったこだわりな様な気がするのです。アルファにとっては、トランスアクスルは唯一無二のクルマの機構でしかなかった訳です。
 アルファに乗る時はメーカーが目指したであろうクルマの使い道や機構の仕組を頭で理解しなくても全然不都合はありません。シトロエンを運転するときの様にアキュムレータのご機嫌を伺ったり文化のギャップを感じながら乗る様な事はないのです。ただただドライバーが「そうしたい」場面で、そう使えばいいだけです。ひとつだけドライバーに考えさせる事があるとすれば、それは「走るとは何か」という事だけです。それがアルファイズムじゃないかと思うのです。

 アルファの素晴しさはもしかすると「人間が機械を使って走るという、あたかも完成された事の様に思っている事が実はまだ答えが見つかっていないテーマなのだと気付くこと」なのかも知れません。



40に続く