ツーリングメモ-4 |
コーチメン、止まる |
夏は暑い。でも今年の暑さはちょっと違う。
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山形〜湯沢〜錦秋湖SA〜安比 8/11/2002 |
山形市から新庄市までのR13は全線が開通すれば素晴らしい道路になるだろう。関東ならR4の宇都宮〜春日部間あたりがまさしくそんな感じの、アメ車にとってはまるで故郷に帰ってきたような最高のシチュエーション。オートクルーズを40mile/h(約60km/h強)から45mile/h(約70km/h)あたりにセットしたら、あとは30分も40分も信号ひとつなく、「ドロドロドロドロ…」というアメリカンV8のサウンドに身を委ねながら、開けた森の中を、文字通りクルージングしてゆく。東北や北海道にはこんな道がわんさとあるが、アルファに乗ってる時はこういう道はあんまり好きじゃなかった。コーチメンの時はどういうわけかこういう単調な道の方がドライブが楽しくなる。ただし景色には森と草原付き。BGMはルパートホルムス。 新庄では「かつ宗」という山形のチェーン店らしきトンカツやさんに入る。ここのカツ丼が絶妙に旨かった。そんな風に快適な旅をしながらも、思えば僕らは最初、なんとなく充実感の薄い、喉の奥に溜まった違和感のようなものを抱きながらクルマを走らせていたのも確かだった。いつもなら行く先々で出会う人と話すのが楽しみなはずなのに、今回はそれどころかなるべく誰とも話したくない、他の人の視線や会話を拒みたかった。体調が優れていなかったせいもあるかもしれない。休憩のために立ち寄った道の駅でも、暑さのせいかいつになく車内に閉じこもり気味。キャンピングカー自体が珍しいのかもしれないけれど、外からの無遠慮な視線にも、ちょっと嫌気が差していた。 その気持ちは安比についてからも変わらなかった。錦秋湖SAの温泉に立ち寄った頃から雨になり、安比に着いた頃には断続的に土砂降りに。安比に向かった理由のひとつは、雑誌で見たキャンピングカーフェスティバルなる、いわばキャンピングカーの展示商談会のようなもの。でも実際には入り口で一人600円の入場料を取ると言われたせいで見るのはやめにしてしまった。広告にはそんなことは一言も書いていなかったからだ。商談するのに金を取るというのもなんとなく釈然としない話。 もっともそれだけで無駄足になるような場所ではない。安比高原というとスキー場を真っ先に思い浮かべるが、元々この一帯は竜ケ森と呼ばれていたなだらかな草原や森が続く広大な丘陵地。もちろん安比という地名もあるにはあるけれど、厳密にはスキー場とはだいぶ離れていて、どちらかというと八幡平の北東斜面の安比岳から西森山にかけての稜線を指していた。 竜ケ森は安比高原スキー場のちょうど真向かいに見える小さな丘(東北は「○○森」という名前の山や丘が多い)。丘といっても標高は600m以上ある。で、今はこの辺も含めて「安比高原」と呼んでいる。右写真はスキー場からはだいぶ離れた西森山中腹にある本家本元の安比高原(黒いのは野生の黒豚…ではなく雨の中を走り回るウチのイヌ)。ゴルフ場に見えるけど、立派な天然湿地と草原。標高はここでだいたい800m前後。以前は林道しかなくて、殆ど誰も足を踏み入れないような秘境だった。今は大型のClassCでも乗り付けられる「ブナの駅」というトレッキング基地管理小屋がある。好きな人ならここを基地に3日は遊べる。
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安比〜盛岡 8/12/2002 |
起きてしばらくすると雨もいよいよ激しくなり、安比どころか高速道の様子も怪しくなってきた。せめて午前中に盛岡まで降りて、冷麺でも食べて帰ろうということになり、R282を南下することにした。 午前11時を回って昼時にちょうどいいかなと思う頃、R282からR4に入って盛岡市の手前、ちょうど渋滞の中にいた時、それは起こった。前のクルマが動いたのに合わせて自分も発進しようとした瞬間、突然コーチメンのエンジンがストール、慌てて再始動してもなんかアイドリングがヘン。そのうちエンジンがばらつきだし、アクセルを踏んでも加速しなくなってしまった。とっさに「ヤバイ!」と感じた。そしたらちょうどうまい具合に、目の前に駐車帯があるではないか。こういうとき、僕はなぜかいつも妙なタイミングというか、不思議な運と巡り合わせる。目の前で起きている事実は最悪なんだけれど、不幸中の幸いというか、踏んだり蹴ったりにならない悪運みたいなものに縁がある。たぶん絶体絶命のピンチから生還するのはこういうタイプなんだと思う。ダイハードを見た時はとても他人事とは思えなかった。とにかくエンジンは風前の灯火。最後の力を振り絞ってクルマを滑り込ませる。エンジンを止めると同時に猛烈なガソリン臭が室内を襲う。クルマの外は、洪積紀はこうだったんじゃないかと思うほどの、ますます激しい雨。 安全な場所に駐車できた事に感謝しつつ、しばらくは呆然とし、やがて今後の対応を考えはじめていた。でもこういう時、ヘタに腕組みして何かを考えてもあんまり良い考えは浮かばない。エンジンをかけてみた。ちゃんとかかる。なんだ回転もあがる。「お?調子がいいじゃない!」と思っていると間もなくエンジンがばらつき始める。そしてエンスト。「こりゃプラグがかぶってるなあ」何度かそんな事を繰り返しているうちにストレスのせいか猛烈に眠気が襲ってきた。なんとなく燃料系統かなとは思う。試しにコーチメンを購入した東和モータースに電話してみることにした。けれども手がかりになるような事は何も聞けなかった。分かり切ったことだけれど。こういうとき僕は過去決まって同じパターンを経験している。 不具合に気づく→自分で予想をつける→その原因を洗ってみる→効果なし→販売店に聞く→自分が気づいた点を報告する→自分で原因を洗って「違う」と断定したはずの予想を言ってくる→それはもう試したと言う→じゃあ見なければ分からないと言われる→そのまま放置される→信用できなくなる→その販売店と縁を切る 開けて見なけりゃ分からないのは誰でも同じ。問題は「そのときシロウトはどうすべきか」を知りたいのだ。プロはそれをどうやってサービスと商売に結びつけるか考えて欲しいのだ。電話の主はどうやらそれすら「売った後は」面倒らしい。 おっといけない、眠くなるとマイナスな感情が支配しはじめる。だらだらいい加減な答えにうんざりして電話を切り、僕の思考は完全にストップした。こんな時は寝るに限る。冷蔵庫にも食料はたっぷりあるしトイレも付いている。ジェネさえ回ればエアコンも効く。ほんとキャンピングカーは便利だ。いっそしばらくここに住むか。住むならスーパーの近くか安比のてっぺんの方がよかったなあ…などと夢うつつ。。。 はっと目を覚ますと午後1時を回っていた。う〜んこうしちゃいられない。クランキング〜アイドリングの様子からすると、自力での問題解決は無理と判断、JAFに電話することにした。けれども電話に出たお姉さんは、「車検証で3tを越えているクルマは面倒が見れない(コーチメンは3.05t)」などと薄情な事を言う。「そこをなんとか」と拝み倒して、取りあえず来てくれるだけ来て貰える事になった。 JAFを待ってる間、僕は運転席のエンジンフードを外しにかかった。フォードエコノラインやダッジラムなどのアメリカンフルサイズバンは、ボンネットトラックにもかかわらず、日本のマイクロバスのようにキャビン内にも樹脂製のエンジンフードがある。ボンネットトラックといっても前輪を納めるのとクラッシャブルゾーンを確保する程度だからV8エンジン全体はどうしても納まりきれない。その分、エンジンがキャビンにせり出しているのだ。そのためボンネット側からのアクセスはほとんど補機やフルード類のメンテ用、実際のエンジン整備や点検はこのフードを外して行うようになっている。このフード、マイクロバスやワンボックスならキャビンの真下に付いてるが、エコノラインは斜め前方。だからとても整備性が悪い。エンジンの中心がちょうどダッシュボードの真下に来る。外からアクセスしても中からアクセスしても中途半端なところまでしか手が届かない。もっとも手が届いたところでそう簡単にエンジンは顔を出してくれない。それほどV8のブロックは下の方に付いている。プラグなんかどうやって点検するんだ?てな具合。しかしこの印象が後で意外な事実に結びつく。 この土砂降りの中、駆けつけたJAFの牽引トラックはまるで国際救助隊のように見えた。JAFのお兄さんは1時間以上に渡って、とても献身的に見てくれた。しかしそれでも原因を突き止められず。JAFの手引きで、盛岡南インター近くの「兼平自動車」という小さな修理工場がエコノラインを修理してくれると分かり、とにかくそこまで移動することにした。問題はその移動手段。牽引できるか微妙な重量だが、取りあえず試してみてくれた。牽引ラダーをコーチメンの前輪にかけて…。牽引ラダーが狭い。あと数センチの差でコーチメンのトレッドは、牽引ラダーを拒んでしまった。牽引はあきらめ、仕方なく併走してもらいながら自走を試みることになった。 イグニションをオンにし、セルを回す。威勢良くエンジンが息を吹き返す。後からJAFのクルマについてきて貰い、慎重に走り出す。最初のうちはかなりスムースに加速してゆく。「なんだこのまま行けるんじゃない?」なんて二人で話し合いながら1kmぐらい進んだところで、突然またエンジンがストールしてしまった。しかも渋滞中の交差点の中。マズイ!JAFのお兄さんがすっとんできてくれて再始動を試みるがもうダメだった。「すぐ近くに空き地がありますから、そこまでロープ牽引します!」お兄さんはそう言ってロープを準備しはじめた。 牽引ロープをかけて準備が整うと、ギアをニュートラルにし、Pブレーキを解除、石の様に重たいステアリングと、これまた漬け物石を踏んでるような感覚しかないフットブレーキを踏みながら、慎重に引っ張られてゆく。時速は10km/hも出ていないだろう。こんな重いクルマをロープ牽引されたのは初めて。最初で最後であってほしい。たった100m先の空き地まで行くのに、そう思ってしまうほど、それほど重量車のロープ牽引は恐ろしかった。 この100mという距離も微妙だ。エンストした交差点から、このかつて中古車屋があったという空き地まで、ロープ牽引できるギリギリの距離、しかしなぜそこにそんな空き地があるのか。他のどこを探してもそんな空き地はないのに、そこだけ申し合わせたように待避所がある。アルファロメオもそうだが、とにかく僕は「安全に待避できる場所」の付近でしかクルマのトラブルに出会ったことがない。ただ、そこでヘタにジタバタして無理に自力で動かそうとすると、もう後にも先にも進めなくなるという事態になる。だから「この辺が潮時だ」というような示唆を、クルマから受けているような感覚に、いつもとらわれる。 クルマに命や意志があるわけではない。そしてクルマがトラブルを起こすのは、たいていの場合オーナーのメンテ不足や不具合の放置が原因だ。けれども、「もうボクは走れないよ」とクルマが悲鳴を上げているようにも聞こえるときがある。そしてそれが起きるとき、なるべくオーナーに迷惑がかからないような安全な場所を、クルマ自身が探してるとしか思えない時がある。特に今年に入って僕はどうもこの声を良く聞くような気がする。 結局大型の牽引業者に依頼しなければダメということになり、JAFが知っている業者に連絡。トレッドから言って国産トラックに換算して4t車用の牽引ラダーを持ったクルマが必要だという。確かにコイツは3t車だ。なるほど。 で、料金は?と、電話でその見積を聞いて僕は卒倒しそうになった。時間にして約30分、盛岡南インターまでの約10kmを牽引するのに6万円弱かかるというのだ。これにはさすがに血の気が引いた。旅先とは言え、6万などハイハイと即答できる額じゃない。けれども四の五の言ってると日が暮れてしまう。兼平自動車だってそうそう遅くまでやってる訳じゃない。雨も相変わらず激しく降っていてみんなびしょぬれ。「しょうがない、金の問題じゃない」と即断、牽引を依頼する。 JAFの役目はここでおしまいと決まった時点で、家内が桃をむいて皿にのせてJAFのお兄さんにすすめてくれた。最初は遠慮していたお兄さんもおいしそうに桃を食べてくれた。 JAFのクルマに乗せて貰い、牽引業者の事務所まで行く。ここでJAFのお兄さんにはお礼を言ってお別れ。当の牽引車が出払っているという事で30分ほど待たされる。業者のトラックに載せて貰い、再び現場に戻ったのは5時頃だろうか?相変わらず土砂降りは続く。業者の社長さんは話し好きで、人の良さそうな盛岡の社長さんという感じだったが、見積もりの高さと「また何かあったらいつでも言ってください」の一言に、なんとなく違和感を抱く自分がいた。彼には僕がこの6万というお金を「ほいほい」と出せる「東京のヒト」に見えたのだろうか?(東北の人達にとって大宮ナンバーは、習志野や多摩と同じように「トウキョウのナンバー」に見える) それに引き替え、実際の牽引作業をしてくれたメカニックはあまりにも口が重たい、これもまた典型的な岩手の人たちだった。挨拶すら煩わしいというように、黙々と二人がかりでクルマをラダーに乗っける作業を車内から見つめながら、僕はいろんな事を考えさせられた。 結局、これはどういう顛末になるんだろう?今回僕らはなるべく出会いを避けながらキャンピングカーを走らせてきた。二人とも暑さと疲労で体調も良くないまま、東北に行けば涼しかろう、体調も良くなるかも知れないと、帰省を口実に漫然と走らせてきた。確かに涼しい岩手で僕らはかなり体調を取り戻した。けれどもそれと引き替えにクルマは動かなくなり、否が応でも「誰か」と真剣に話さなければならない事態に追い込まれている。僕が格別に変わっていると言われるかもしれないが、本当に人間関係が煩わしいと思う時は、無二の親友とだって会いたくないし口も聞きたくなくなるものなのだ。それでも僕らはよりによって「夏休みに仕事をする人たち」に、自ら何かを話さなければこの事態を打開できない状況になっているのだ。
そんな事をぼんやり思っていると、とても無口な二人のスタッフの作業は終わり、牽引が始まった。「ギアをニュートラルに入れてパーキングブレーキをはずしてください」スタッフの一人がやっとそれだけ言うと、牽引車の中に消えた。我々は斜めに持ち上げられたコーチメンでしばしのドライブ。自分が運転してないのに、勝手に無音で動くコーチメンはなんか新鮮な感じがした。けれども路面のギャップを拾う時の振動は予想以上に激しく、シケの時に無理矢理波に向かっているボートのような激しい上下動に、次第に二人とも船酔いで気持ち悪くなってきた。 いよいよ盛岡南インターに近づいた時、突然牽引車が路肩に停車しようと左に寄せた。そのとき、ことさら大きなギャップに乗り上げ、牽引ラダーが外れてしまった。停車寸前だったので大事には至らなかったが、かなり大きな衝撃音が響いて思わず悲鳴をあげるほどだった。どうやら「兼平自動車」の場所が分からなくて、我々に聞くために停めたらしい。でも我々だって知らない。ただJAFのお兄さんが業者の社長さんに一所懸命地図で場所を説明していたのは見ていた。…ってことはなに?社長さんはスタッフに場所も教えずにいたわけ?スタッフはどこへ行くかも分からずにクルマを運んでたわけ? 相変わらず無口に牽引ラダーを組み直すスタッフの傍らで、焦りながらもなんとか兼平自動車に誰かいてくれる事を願って電話すると、果たして電話は通じてくれた。JAFから連絡を貰ってたのと、旅行中のクルマだという事で、閉店後も待っていてくれたらしい。ただ、電話では「今日はお預かりするだけになってしまいますよ」と言われた。もちろん覚悟の上。ただ、できれば僕らはそのままガレージの軒に泊めて欲しかった。イヌもいるしとても旅館やホテルには泊まれない。それよりなによりとにかく疲れていた。そのことを頼もうと思ったが、しかし電話では話が面倒だ。実際に行ってから頼めばいいや思い、言いかけてやめた。 ほどなく牽引ラダーも組み直り、再び出発すると10分もしないうちに兼平自動車に到着した。牽引業者のスタッフはここでも無口ゆえ、到着しても先方の誰とも容易には言葉を交わせない。僕が降りていって取りあえず子供を抱いている男の人に声をかけて挨拶、ガレージ前にコーチメンをやっと降ろした。 さて、依頼の手続きをしてP泊の許しを乞わなければと思っていると、電話で「今日はお預かりするだけになってしまう」はずだったのに、やおら二代目らしきメカニックとさきほどの子供を連れた人がクルマに潜り作業を始めてしまった。何となく面くらいながら手持ちぶさたにしていると、社長の奥さんが「お腹すいたでしょう、そこの軽自動車貸すから、冷麺でも食べてきて」とキーを差し出してくれた。好意にありがたく甘えて、疲労困憊していたのも忘れ、ぴょんぴょん舎で久しぶりに盛岡冷麺と焼き肉を堪能。 兼平自動車は、家族と何人かの従業員だけでやっているという、敷地100坪ほどのこぎれいで小さなワークショップだった。60歳ぐらいの社長さんとその奥さんが経営していて、もちろん社長さんはメカニック。二代目の息子さんもメカニック、娘さんは経理を担当しているようだった。一番先に声をかけた子供を連れた男の人はこの娘さんの旦那さんと判明した。一家でやっているなんとも和気藹々としたワークショップだったのだ。従業員は夏休みだけれど、二代目が「お盆は仕事する」と言ったので全員で出てきていたと社長の奥さんが説明してくれた。 妙な符合だ。フォードエコノラインというクルマ、日本に正規輸入された事がないから地方でこれを修理〜整備してくれる工場を探すのは相当に骨が折れるはずだった。しかも昼間に電話した東和モータースでも「青森と宮城には提携工場があるが岩手だけない」といわれるほどの県だ。そもそもキャンピングカー自体が珍しい土地柄なのだ。その岩手で、JAFが「フォードエコノラインの修理の経験のある工場」で探してくれたのがこの兼平自動車、滅多にない出会い。それだけではない。普通の整備工場なら既にお盆休みに入っていたはずが、二代目の提案でここはたまたま営業していたのだ。 妙な符合は続く。冷麺に舌つづみを打ちながら、僕は頭の片隅でなんとなく娘さんの顔に見覚えがある事にひっかかっていた。以前の教え子の一人によく似ている。けれども工場のある場所は僕が教師をしていた学校とは学区がずれている。そしてそれが本人だったとしても名前は忘れている。 1時間ほどで戻り奥さんや娘さんと話をしているうちに、ふと娘さんの方から「もしかして美術関係のお仕事されてますか?」と話を振ってきてくれた。それで全てが氷解した(笑)10年以上前に僕が生活のために講師として潜り込んだ中学校で初めて美術を担当したのが彼女の学年だったのだ。彼女はずっと僕を教育実習の学生と思いこんでいたらしい。実際には僕はれっきとした教師だったのだが(笑)奇遇は重なってやってくるものらしい。 作業はまだ続いていた。主な作業は二代目の息子さんと社長が進めていたが、原因はどうやらプラグコードとプラグのようだけれど、これだけではこんな重い症状は起きないので、もう少し調べる必要があるとのことで、もう一晩時間をくれとの事。くれも何もこちらは時間外にいきなり修理を依頼している身である。そもそも不動状態に陥ったクルマが2日やそこいらで代替部品もないまま完治するのだろうか? 10時を回った頃に作業を中断。好意でそのままP泊をさせてくれることになった。嬉しい計らいだった。疲労困憊していた。けれどもこの晩、 今回の旅の最初からずっと気になっていた、喉の奥につっかえていたものが、徐々に取れていくような気がした。
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盛岡 8/13/2002 |
P泊はできたものの、点火系やインジェクション周りを外しっぱなしのため火気厳禁。アクセサリーやジェネ(発電機)も回せない状態で、携帯やデジカメの充電もできないまま一日が過ぎた。そのためこの日は写真も思うままに撮れず、外部との連絡も絶たれてしまう。 朝は9:00から作業が始まった。昨日までの雨は嘘のように、雲の切れ間から太陽が照りつけてかなり気温が上がってきた。僕らは作業の邪魔になるだけだから、代車の軽を借りてその辺をうろうろする事にした。といってもコインランドリーでたまった洗濯物を洗ったり、銀行に寄ったりするともうすることがなかった。しかたなしに南昌山の麓にある滝の近くで半日ぼーっとしていた。 南昌山は盛岡市の南西にある小さな山。無名だが土地の人達の間では親しまれている。形も独特で釣り鐘を伏せたような不思議な形状の山だ。親しまれている割には観光化もされず、登山道も思いの外険しいため、訪れる人は少ない。その南昌山の登山道の入り口には、写真のような立派な滝が流れている。連日の雨で他の河川が濁流と化していたのにも関わらず、ここの沢は比較的澄んでいてきれいだった。市内からクルマで15分の場所に、こんなところがある街。周辺の駐車場にはお盆なのに営業回りをさせられているとおぼしき営業バンが、日がな昼寝をしているのを何台かみかけた。 我々もかなり時間を潰すのに苦労したが、夕方6時頃、やっと工場から電話が入った。「上がりました」との事。なんとなく信じられないような、小躍りしたくなるような軽い興奮状態で駆けつけた。 行くとすかさず社長さんが説明を始めてくれた。 実は思い当たるフシはある。2月の車検の時に整備記録には「エンジンOIL」の項目に交換のマークが入っていた。ところがその後ゲージを調べてみると、真っ黒でさらさらのオイルが出てきていた。つまり車検を担当した業者、それはすなわちコーチメンを購入した店でもあるのだが、オイル交換済みと言うのは嘘の記述だったという訳だ。それと、昨日、JAFを待っている間に運転席のエンジンフードを開けようとした時、かなり長い期間開けたことがないほどフードが固着していたのだ。その後開け閉めにさほど苦労していないから、おそらく車検の時も納車整備の時ですら、フードを開けて整備したとは考えられない。他にも、ガソリンタンクのキーをこちらで持っているにも関わらず「ガソリンを入れておきましたので」と数千円を請求されたり…キャップの開かないタンクにどうやってガソリンを入れたのだろう。とにかくこのクルマの車検の時はどうにも怪しい出来事で一杯だった。 そんな具合でだいぶ信用は壊れている。買った直後はいろいろ親切にしてくれたし相談にも乗ってくれた。けれども企業全体の姿勢、あるいは営業システムとしてはどうだろう。 いくら売る前に客に感謝されても、あとでふんだくってしまったら、全て意味のないものになってしまう。売り切り商売というのは、事情は分かるがなんとさもしい、哀しいものだと思った。 一方、兼平自動車にコーチメンを預けている間、不思議な感覚が僕を襲った。先方は普段の仕事でその作業をやっただけかもしれない。結果は簡単な修理だったかもしれない。けれども僕は修理を依頼していた2日間、少なくともコーチメンはメカニックに愛されているなと感じた。 他人の車を愛するなんてあり得るのかと思う人もいるかもしれないが、車種によっては愛されるのである。僕も今まで1度だけ経験したことがある。それはAlfa gtv2.0の修理をした時だった。高度に専門化した知識や経験を駆使する整備だった。Alfettaはこうやって直すんだよ、こう走らせるんだよというような、それはそれで嬉しかったが、やはりアルファだけが特別扱いされていた。予約を入れて2週間も待たされて、やっと自分がその一流のメカニックと話せるような、特権的な体験だった。そんな感じで自分のクルマが愛されるというような車種はある。けれども今回の兼平自動車の修理はそれとは全く違う。違うと言うより、逆の意味で特別な体験だった。クルマはどんなクルマでも動く権利がある。本当に動かなくなる時まで、クルマは動く権利がある。完璧なクルマじゃなくてもいい、性能のいいクルマだけじゃない、クルマはみんな動いて働く権利がある。社長さんと話していると、そんな風に言われているような気がした。昔気質なのかもしれない。でもコーチメンもそうやって直してくれたんだと思うと、なんだか嬉しいようなほっとしたような、そんな気分になった。 古いクルマに乗っていると、時々「お客さん、このクルマもう古いですからねえ」と言われる事がある。これほどオールドカーオーナーを傷つける言葉はない。しかもこれはオールドアルファを売っている店でも決してあり得ない話じゃないのだ。ましてコーチメンの場合は古い上にベース車の正規輸入の実績がないクルマ。日本中の整備工場に断られても文句の言えない車種と言われる。だから整備や修理はキャンピングカー屋さんまかせ、見積もりも結果もキャンピングカー屋さん任せ。文句言えないよ、そんな空気が支配している車種。これから受難だなあと不安を感じていた矢先の出来事でもあったのだ。 そう考えると、兼平自動車を知るきっかけになった今回の出来事は、あながち不運とか不幸とも言い切れない様な気もしてきた。やや距離があるようにも思うけれど、でももし定期的に兼平自動車に整備を依頼するなら岩手に行くいい理由もできたことになる。 イグニッションキーを回すと、前の通り、いや前にも増してコーチメンは調子よく回り始めた。完璧です、社長さん。 夜も更けてきたので遠くに移動するのはやめて、近くのパストラルバーデンの駐車場でP泊することにした。熟睡。
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矢巾町〜種山高原 8/14/2002 |
ラジオでは朝から東北道の混雑と、再び大雨の予想。しかも関東では相変わらず猛暑らしい。気がつけば連日の雨による低温と熟睡のおかげか、二人とも体調が戻ってきている。 例によってひとまず4号線と東北道を避けながら南下することにした。広域農道や県道を縫うように走り、途中道の駅石鳥谷を経て、宮沢賢治記念館に立ち寄った。過去何度も来ているので別段見るものもなかったが、早朝でまだ空いていたのと、入場料がとても安くて良心的なのとで寄ってみた。賢治記念館は庭園もきれいだが、勾配がきついのと駐車場から見えにくいのとで、案外訪れる人は少ない。ロビーの喫茶店でくつろいでいると、そのうちドヤドヤと客が増えてきて、あっという間に館内はごった返してしまったので早々に退散。そうそう、土産物屋が見違えるほど充実していた。自筆原稿のコピーも売られていた。著作権が切れたからできる商品。関係ないが、僕は高校生の時に初めて「永訣の朝」を読んだ時「わたくしをいつしゃうあかるくするために」の部分で泣きそうになってしまって、それ以降なかなか読めず「わたくしもまつすぐすすんでいくから」までをやっと読んで、もうそれ以降はいまだにダメだ。慣れるどころか年々ダメになってゆく。賢治の詩は、教科書程度でしか知らない人にとっては「雨ニモマケズ」が代表作のように思われがちだが、あれはそもそも詩ではない。そして賢治の人間性を写してはいるが、賢治の世界観ではない。賢治の詩の醍醐味は、本来自然の描写に尽きる。まるで夢を見ているような言葉の数々。その中から自分に合った詩を見つけた時は、軽いエクスタシーを覚えるほどだ。それが賢治の詩の楽しさ。けれどもこの永訣の朝など一連の妹の死に関する詩だけは、夢見がちな賢治の世界観とは完全に異質だ。そして世の中にあまたある人の死を扱った詩の中では飛び抜けている。それ故に、読めない。
それはともかくその後山猫軒でてんぷら蕎麦を食べる。残念ながらサイダーはなかった。蕎麦は別段旨いわけではないが、ふと忘れかけていた「岩手のそば」の味がした。不思議だった。そうそう、岩手の蕎麦は高級な蕎麦屋に行けば行くほど、焼き物の丼は使わない。何が何でも漆塗りの「わんこ」である。一説には、そもそも日本には汁物を焼き物にはよそる文化はなかったとか…。真偽のほどは知らない。 そこからR283を経由してR456を経て県道を走っていると、道の脇に「国指定重要文化財 旧小原家住宅」という小さな看板が何カ所かに立っているのを見つけた。ふと丘の方に目をやると、藁葺きの南部曲がり家が建っているのが見えた。普段ならこういうのにはあまり気にとめずに通り過ぎるのだが、何となくそのときは気になって、寄ってみたくなった。しかしアプローチはかなり狭そうで、クルマが一台やっと通れるほどの道幅しかない。それでもコーチメンでチャレンジしてでもその曲がり家に引かれるようにあぜ道に進入していった。対向車が来たら絶対すれ違えないが、幸い遭遇することなく林の中の道を過ぎると、曲がり家の裏手にかなり広い駐車場があることを発見、無事コーチメンをそこに駐車することができた。行ってみるものだ。
曲がり家に近づいてみると、なんだか荒れ果ててるような、それでいて生活感があるような観光施設のような微妙な空気が辺りを支配している。見渡しても僕らの他には誰もいないようだった。おそるおそる曲がり家の敷居をまたいで中の土間に入ってみると、家の中の方で人の気配がした。「あれ?もしかして住んでるのかな?」と思い、慌てて「ごめん下さい」と声をかけると、中から「どうぞお入り下さい」と年輩の男の人の声がする。「う〜ん、やっぱり実際に住んでたんだ」と思って「家を見させてください」と言ってみると、男の人が出てきて「どうぞどうぞ、ご自由に。もし良かったらいろりへどうぞ」と言う。うながされるように見ると板の間にはいろりがあって、薪が燃えているではないか。僕たちは誘われるようにいろりの側に座った。
いろり端は暖かくて、雨降りの続く今日のような天気にはとても気持ちが良かった。僕はおじさんに話しかけた。「こちらを管理されてるんですか?」 それを皮切りに、僕はおじさんと蝦夷の痕跡について1時間近くも話しこむことになった。途中、川口市から単車で来て、これから遠野に向かうというライダーの青年や、非番だけれど遊びにきたらしい別のおじさんも入れ替わりで話をして時間が瞬く間に過ぎていった。 この谷内地区は実に面白い。この小原家住宅を後にした後、おじさんに勧められるままに近所の「丹内山神社」というところにも行ってみたが、そこは元々巨石信仰の神社で、アラハバキ神を祀った神社だった。また藤原清衡がこの辺の土地を丹内山神社に寄進した記録、坂上田村麻呂、源義家、奥州藤原家三代、南部家に至るまで、かなり丁重にこの神社を保護していること、山岳信仰と仏教が習合した神社として江戸後期までかなり信仰を集めたこと、東和町に非常に多い姓である「小原家」の本家が「物部家」であること、全国に3カ所しかない古物部氏の墓が谷内地区にも存在することなど、歴史マニアにはたまらない興味深い話が盛りだくさんだった。僕は別段マニアな訳でもなんでもないが、以前から時折こういう蝦夷の末裔に関係のある場所に「ふら〜っと」誘われるように行ってしまう傾向があるので、そんな話に自然に興味を持つようになってしまった。確かにここは初めて通る道だった。そして確かに何かに呼ばれた。それはオカルトチックなものではなく、自分の感性が自然で素直な状態になっている証拠だ。
ちなみに丹内山神社の現在の建物は、江戸期の南部利敬公が寄進したもので、正面から側面にかけての彫刻は、美術史や歴史をする人にとっては必見だ。とにかく現物を見るとぶっ飛ぶぐらい凄い。これが無名のまま現在に至ってる事自体が不思議だ。ちなみに右の写真は丹内山神社の大元のご神体の巨岩。中を人がくぐれるぐらいの大きさの割れ目がある。
右写真は沖縄出身の黒ラブ「アイナ♀」とネリ♀。大宮から来たという若い人たちが連れていた。丹内神社の境内で突然、このアイナが僕たちのところに駆け寄って来た時は、「あれ?クルマの中に置いてきたはずなのに、オマエ何してんの?」と本気で犬に話しかけた。それほど単体では見分けがつかなかった。 そんなこんなで、今日中に関東に入ろうという予定は、この東和町での思わぬ体験ですっかり狂ってしまった。気がつけばもう夕方だ。今日の宿を探さなければ。地図を見てとっさに「種山が原に行こう」と思いついた。そこなら道の駅もあるし、ここからなら30分程度だから、うまくすれば種山が原そのものと再会できるかもしれない。家内も岩手で生まれ育って種山が原は初めてだというし。 途中、江刺市人首地区という場所を通る。「人首」なんて聞くとぎょっとするかもしれないが、これはヒトカベと読む。アイヌ語の名残だ。人の首とは何の関係もない。おそらく「ヒトカペ」あるいは「ヒトカベツ」の転訛ではないかと思われる。宮城県には「鬼首(オニコウベ)」という有名な高原があるが、これもオニの首とは何の関係もない。「…ペッ」とか「…ベ」「…ベツ」というのは、川を意味するアイヌ語で、東北や北海道の各所で転訛している。北海道で言えば「興部(オコッペ)」や「江別(エベツ)」「長万部(オシャマンベ)」。ちなみにオニコウベとオコッペはどちらも川が合流している場所にある。ヒトカベは一説にはアテルイの時代の人名だったという伝説もある。 この人首地区で、なんとなくいい風景を見た。お爺さんとお婆さんと一緒に歩いていた、花束を持った3歳ぐらいの男の子が、フラフラと車道に出てきたために、僕が少し強めのブレーキを踏んで徐行した。お爺さんとお婆さんが慌てて子供の手をとって引き戻し、こちらに挨拶を交わしてくれたのだ。おそらく孫だろう。こちらも「オーライ」の合図を返した。そのときの、お爺さんとお婆さんの満面の笑顔が、なんとものどかで素敵だった。僕も満面の笑顔だった。家族総出みんなでこれからお墓参りに行くのだ。先祖が眠るお墓へ。 種山が原の入り口は以前とはだいぶ様子が変わっていた。以前は当然道の駅などなく、国道もこんなひっきりなしにクルマが通るような場所ではなかった気がする。そもそも案内板ひとつない林道をやっと見つけて分け入るような場所だった。オフロードバイクでやっとUターンした様な記憶もあるから、コーチメンでは上まで行けないだろうなとは思っていた。けれども道の駅の案内所で、どうやら山頂近くにオートキャンプ場ができたらしいことを知り、そして1台マイクロバス(トヨタコースター)が降りてくるのが見えた時、コーチメンで上まで行ってみようという気になった。 種山が原は北上山地の中央に位置する高原で、標高はだいたい800m前後、南北20km、東西11kmに渡って、なだらかな丘が広がっている。宮沢賢治の詩や童話「風の又三郎」の舞台になった場所でもある。周囲に遮る物がなくとても見晴らしのいい場所だ。長野県の美ヶ原に少し風景が似ているかもしれない。ただ、美ヶ原は2000m級の高山であるのに加え、美ヶ原を初めとする日本の高原の殆どは、火山が作り上げたカルデラや火口丘、コニーデのすそ野であるのに対して、この種山が原は日本には珍しく低山性で非火山性の高原だ。中国地方にも非火山性の高原が点在するが、北上山地よりもずっと若い山地で険峻さが残る。造山運動の老年期の、広くなだらかなイギリスの山地によく似た高原地帯は、日本列島ではここを置いて他には見られない。また、たまたま種山が原だけが有名になってしまったが、実は北上山地には青森県境から宮城県北部にかけて大小の素晴らしい高原がひしめき合っており、北海道と並ぶ一大酪農地帯になっていることも意外と知られていない。そもそもこの一帯は江戸時代以前から、馬や牛の飼育が盛んなところだ。未開の大自然というと、たいていは北海道に目を向けがちだが、そのおかげもあってか程良いマイナーさを保ち、実り豊かな温帯林、亜寒帯林の多くが、手付かずのまま温存されている。 いざコーチメンで進んでみると、上までのアプローチは昔とあまり変わっていなかった。森の中の狭い農道を抜けると突然広大な野原と空が広がる。ただ違っていたのは、野原に寝ころんで空を眺めていた場所が、今はオートキャンプ場になっていて、家族連れの人たちがバーベキューをしていた事だけだった。そこを通り抜け、さらに物見山の観測所の門も過ぎて、丘の向こうの方までクルマを走らせる。これ以上はUターンできそうもないと思った場所に、コーチメン1台がやっと停められるような空き地を見つけてエンジンを切った。無音。雨もほとんど降っていない。キャンプ用の椅子を出して、草原の真ん中に腰掛けてみた。海からの霧が少しずつ上がってきていた。僕らの他にここには誰もいない。8月とは思えない、埼玉とはとても同じ国とは思えない、土の底からわき上がってくる冷気。僕にとってここはまるで竜宮城の様に心地良い場所だ。ずっとこうしていたいと痛切に思った。いや住んでしまいたいとさえ思った。
牧場にはこんな巨大なフォードのトラクターが停めっぱなしになっていた。おそらくコーチメンよりデカイ。
それにしても、雪原と草原に、僕はどうしてこんなにもノスタルジーを感じてしまうのだろう。考え続けているがいまだに不思議だ。僕は夏涼しく冬暖かい港町で育っている。なのに自分の原風景は寒々とした雪原か草原にばかり向く。学生の頃、すっかり辺り一面が雪で覆われて、線路しか見えない雪原を地平線近くから走ってくる汽車を、北のとある小さな駅のホームで見たとき、懐かしさと感動のあまり涙が出、身体がふるえて止まらなくなった事があった。しかしそれがどうして僕をふるえさせたのかいまだに分からないのだ。 そしてこの種山が原も、僕自身賢治の作品と向き合うようになる前、やはりこの辺を単車でうろうろしていた頃に偶然、何かに引っ張られるように、寂しい林道に入り込み、突然天井が破れるように広がった広大な草原と空に遭遇して打ち震えた風景だった。降りてからここが「種山高原」だったことを知り、後に宮沢賢治が愛した土地だと知って、もう一度行きたいと願うようになった場所。 そんな事をぼんやりと考えていた時、今回の旅がまさしく数々の奇遇に彩られた旅だったという事に、はっ!と気づいた。確かにこの旅の最初、僕は人との交流を避けるようにしてクルマを走らせていた。孤独を求めるようにして。けれどもいつのまにか逆に、見知らぬ人たちに自分の事を話し、助けてもらい、親切や好意を受け、心からお礼を言い、笑顔を交わし、良心を交換し、気持ちのいい挨拶を交わさずにはいられなくなっていた。 だからこのだだっぴろい野原にぽつんと座っていても、ちっとも孤独じゃなかった。
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